すふぉるつぁんど

主に遠藤浅蜊著「魔法少女育成計画」シリーズについて書き残していくブログです。

プフレ編「朗読劇魔法少女育成計画double shadow」感想①

 

 朗読劇の感想です。やっぱり登場人物ごとに感想を書くのが一番まとまりがいいので、メインキャラクターであるプフレ/シャドウゲール/エーコ・EX・ランタン/ジップステップ/魔王パムについて、一応朗読劇版準拠での感想をまず書いていこうと思います。先に断っておきますが魔法少女育成計画シリーズのdouble shadow以降の展開にガッツリ触れるのでネタバレ注意です。(今更か?)

 まずは主演の片割れたるプフレ/人小路庚江(演者:南條愛乃さん)について。ちょっと未だにうまくまとまった文章が書ける気がしていません……が、以下感想。長いです。

 

 

 

 物語の内容自体に入る前に、朗読劇という媒体で見ることができたプフレについての感想を。

 アニメのプフレの声優が南條愛乃さんだと告知された時に、一体どんな方向性の声になるんだろう!? とドキドキしていたんですが……基本的に甘すぎず辛すぎずのかなり好みな声色をされていました。

 特に特典のボイス付きアクリルスタンドでのちょっとアンニュイさを帯びた声(特に「それじゃそうするにゃん」のしれっと感とお上品さが大好きです。ちょっと自分の脳にかつてなかった音すぎて連打してしまっている。どうにかlimitedアニメ化してこのボイスを高音質で聴かせてほしい)がすごく良かったです。QUEENSのセリフまで聴けちゃったの、本当にすごい特典だったなあ……。

 

 特典はさておき、朗読劇での南條愛乃さんの演技で特に印象的だった点について。公演初日から二日目にかけて、南條愛乃さんの演技への感情の乗り方が変わってきていたというか、回を追うごとプフレは感情的になっていっていたように感じました。

 上記の特典アクリルスタンドに収録されていたボイスを最もベーシックなプフレだとするなら、千秋楽版はそこに載せられる最大量くらいの感情を乗せていっていた感じ。ジップステップ役前島亜美さんの熱演を受けて、応える側のプフレ役南條愛乃さんもまた感情に寄っていくのは舞台として理解できなくもない流れかなあとも思ったり。

 

 元々自分はプフレの感情的な性質が大好きなので、なかなかお目にかかることはないだろう、ここまでの「自分をコントロールできていないプフレ」というものが見られて楽しかったです。

 ただ、もし自分が感情出力の変化過程を経ずに千秋楽版だけを見ていた場合、恐らくあの一連の演技にはかなり動揺していただろうと思うので、これは土曜昼の初回から見られてよかったなとほっとしたのも確かでした。特典ボイスに一番近い抑えたテンションだったのが土曜の昼公演だった気がするんですが、あの演技から入ったことで、その後の感情的な演じ分けもこれはこれとして楽しめたように思います。

 

 その辺については後でまた書くので一旦さておいて、赤いドレスに身を包んだ南條愛乃さんのお姿がすごく素敵だったという話です。御本人の背丈がやや小柄なのもあり、舞台挨拶で演者の方々が横に並んだ時にシャドウゲール役小松未可子さんとの身長差にかなり勝手に滋養を感じていました。ありがとうございました。

 終演時の一礼など、ドレスを着て映える挙動をされているとプフレもすごくこういう動作が似合うだろうな……! とか考えて相当楽しくなっていた。「Mugica Magica」からこっち、まほいく関連での舞台衣装が常に大好きなんですが、今回のプフレイメージであろう南條愛乃さんの赤いドレスも例に漏れず良かったです。プフレが赤いドレスを着ていると思うと、言外に今後の返り血を示唆しているように感じてそれもそれで良いですね。

 

 

 今回の朗読劇は過去一番というほどにアドリブが多く、プフレとシャドウゲールのちょっとした掛け合いもまた回ごとに違っていて、そこも見ていて楽しかったです。

 自分はあんまり内輪的なアドリブが得意ではない自覚があったんですが、即興でのプフゲルのやり取りには妙に「らしさ」を感じるところがあり(予想もつかない言動でプフレを振り回すシャドウゲール、普段は悪戯を仕掛けて振り回す側なのにそれで半強制的にツッコミ側に回されてなんとも言えない顔をするプフレとか。生きた演者と若干混ざって口調の砕けが発生するのも、元々プフゲルの口調が砕ける瞬間に萌えてるのでやや相似で良い(原作小説の話ですが、今回もプフレの口調がだいぶゆるい瞬間があるの最高だった。この緩みが好き)。特に土曜昼初回公演でシャドウゲール役小松未可子さんが「光学迷彩機能」あたりの面倒なセリフを噛んだ時に「ちょっと、難しいですよお嬢」的な流れに繋げてプフレ役南條愛乃さんが応援しながらもう一度言い直させ、本来の台本通りのセリフである「上出来だ」に繋げたところなどは「らしさ」の良さとDJ的な良さが相俟って感心すらしてしまった(この「上出来だ」はクライマックスシーンにかかってくる重要度の高いセリフなので、期せずしてアドリブによりセリフの重みが増しており初回限定的な謎の良さがあった)。「生まれつきこんな顔なんです。ほら」「どれ?」「ほら」と顔を見合うアドリブやり取り周辺のやつは流石にちょっとかわいすぎるかもしれないがギリギリ可動域かもしれないいちゃつき具合で良かった(これは欲目))、その辺りはふざけつつも内輪に振り切らない演者側の塩梅が上手かったのかもしれません。

 そういう面白さを摂取した結果として、プフゲルがコントをしているところがすごく見たくなり困りました。舞台挨拶で言及されていたコメディ版double shadow結構真面目に見てみたい。プフゲルのギャグ短編読みたい(欲望の塊)。

 

 

 さてそろそろ物語自体のしっかりめな感想を。前回の記事でも書きましたが、「朗読劇魔法少女育成計画double shadow」はかつてないほどに原作小説版からの変更点が多いです。「変更点」と読んでいいのかちょっと迷うくらいには違うんですよね。

 ただ、朗読劇用に原作小説に手が入るのは別に今回が初めてというわけではなく。単に朗読劇用にセリフや展開を詰めたりするという以上の、ある種の意図が感じられる変更に関しては、前回の「スノーホワイト育成計画」でも見られたものでした。

 朗読劇版スノーホワイト育成計画にて、フレデリカに「許せない!」と叫ぶスノーホワイトなどは「いかにも」という感じで、大詰めにわかりやすい形のエモーショナルに寄っています。また「青い魔法少女の自己主張」でも、米田瑠璃さんの母親との回想シーンがよりわかりやすくセンチメンタルに改変されていたりします。

 今回の魔王の攻撃を受けてから異様に息が長いジップステップなどは、そういう「クライマックスにしっかりセンチメンタルをやる」朗読劇的な改変だなあと思いながら見ていました。こういう要素は自分にとって特別嬉しい変更というわけではないんですが魔法少女育成計画シリーズの、なかなか簡単にはそういうテンションに振り切らないドライなところは好きの一部なので)、ただ舞台上の感情が濃くて強いとそれはそれでバカ舌観劇初心者(自分)にもわかりやすいものだな~というのも……これまでの朗読劇鑑賞のなかで実体験として感じたことでもあったんですよね。なので作品媒体に応じた変更だなあというところで、不満というほどでもなく納得をしていました。

 

 ただ……今回の朗読劇版オリジナル展開や描写に関しては、自分にとって「楽しい人が楽しいのだろう」と感じる要素以外のところの変更箇所に、確かな「味」があったんですよね……! これが……一番良かった! すごかった! そして同時に、ものすごく感想が書きにくかった理由の一つだった……!

 明らかに魔法少女育成計画への好きに由来するなにかの味を感じているのに、あまりにも感覚的な話すぎてその理由を言語化するのが難しく、困った。そして同時に改変部分の中でも上記のようなそこまで興奮するわけではない部分と、通りの良さがかなり楽しい部分があり、そこを切り分けていくのも難しく尚更困った。でもとりあえず好きな部分を書けるだけ書いていってみます。

 

 

 これは徹頭徹尾とにかく自分の感覚の話でしかないんですが(前置き)、朗読劇オリジナルの展開ややり取りの中に、「これは魔法少女育成計画シリーズの要素を拾った上で作っているんじゃないだろうか」と感じる瞬間がちょこちょこあったんですね。

 例えば朗読劇冒頭では、小説版でのエピローグ的シーンをプロローグにも持ってくるという再構成がされているんですが(小説版だと平然と囚人搬送の歴史からスタートしており激渋でめちゃくちゃ良い)、そこでのプフレが発した「いいや。方法はある。あるという前提で行動すべきだ」*1という言葉は、原作小説には対応するセリフが存在しない、朗読劇独自のセリフです。しかし実際これは、原作でも見られた極限状況に置かれた時のプフレの思考法そのものです。

 

「マスターが我々をいじめ殺しにかかっているという可能性は、追っても解決できないため考慮しない。クリアすれば解放してくれる。ということを前提にする。参加している魔法少女の中に悪意を持った者が混ざっていて、なんらかの方法を用い、マスクド・ワンダーからコインを奪い、チェルナー・マウスのキャンディーを操作した、という可能性にリソースを費やす」*2

 

 原作小説でのプフレの「筋」を朗読劇版の百人試験においても感じられる言い回しで、初回公演そうそうから「おっ」と思ったのを覚えています。後から原作小説に存在しないセリフということを理解して驚きました。

 

 他にも、シャドウゲールが二人の思い出を覚えていて予想外にも内心嬉しいプフレが、唐突に彼女を車椅子に掴まらせて一緒に観覧車を駆け上がる……という、自分の高ぶった感情をシャドウゲールで発散させるような挙動をしていたシーンもそうです。

 車椅子で観覧車を駆け上がるという展開自体は原作小説と同じものの、前半部分の感情の流れは朗読劇オリジナルのものです。シャドウゲールを介して自身の感情の平衡を取り戻すプフレの挙動は、restartでも近しいものを見たことがあったように思います。

 そして小説上だと特にその後関連性があるというわけでもないティーカップと観覧車の改造内容が立体映像で被っている」という描写を、ティーカップの改造を試作品として、最終的に観覧車から立体映像を投影させたいとプフレが計画している」という形にアレンジしており(その展開の前置きとして観覧車に駆け上がっている)、原作小説に存在する要素を拾いつつも、そこに新しい物語の流れを発生させる手つきも純粋に読み味が良くて好ましかったです。朗読劇版ではこの観覧車が後から破壊されて致命的なシーンに繋がるので、「観覧車」というアイテムへの物語上の重みが、このちょっとしたアレンジで増している印象があり、それもまた心地よい流れだった。

 

 

 そういった朗読劇版オリジナル要素の中で、何より自分が「良い」と感じたのが、クライマックスにて魔王パムが廃遊園地に降臨するに際したプフレのセリフです。

 

「大丈夫だ。それより……ようやく来たと思ったら。随分な登場だな……」

[…]

「私が試験官なら、なんらかの監視体制を敷き候補生達を見張る。ここで派手派手しい戦闘が起こっていれば異常に気付いた試験官が駆け付ける筈、だから服従したふりをして時間を稼いでいたが……結局、来たのは別口の者だったみたいだな」*3

 

 ここです! 言うまでもなく好き!

 restartにおけるプフレは、ゲームの「つくり」の部分でゲームマスターの性格を「抜け道を用意し、それに気づけず死んでいく者を嘲笑するタイプ」*4だと推測し、後々ではラズリーヌの死を道具にゲームマスターへ直接交渉を仕掛けようとしていました。

 またACESでは、プク陣営の行動の不自然さに気付くことで情報を掘り直し、プク・プックの計画とシャドウゲールが関連しているところまで辿り着いていました。

 そしてQUEENSでは、グラシアーネという目を潰された際、敵側の視点に立って「プフレでも狙うならグラシア―ネだ」*5と独白したりしています。

 つまり、プフレの動きとして、場にある情報を整理して、「他人がどう考えるか」を思考し、それを元に盤面を動かそうとする……というのは、本編内でかなりよく見られたものなんですね。

 

「無論たなぼたを待ってぼうっとしていたわけじゃあない。これならいけると配置してからも程よく動かし、いじり、合わせ、発破をかけたり、あえてやめさせようとすることで行動を促したり、良い結果が出るように上手いこと調整をしてだね。目的を果たした後でも放り投げたりはせず後始末をきちんと……」*6

 

 なのでこの「試験官は候補生を監視しているだろう」という想定で時間を稼ごうとするのは、表現が難しいですが、すごくプフレ的な動き方だなあと感じました! 

 そもそもプフレはシャドウゲールの魔法がとんでもないことを知っているので、そんなのが居るかも知れない候補生を野放しにしておくわけがないのでは? と思考する流れも全く不自然ではない(これはクラムベリーが本当に監視していたかどうかという話ではない)

 そしてそこで思惑通りクラムベリーが来る……とは行かず、ちょっとオーバーパワー的な最強存在たる魔王パムがやって来てしまうというのがまた、一筋縄ではいかない魔法少女世界を感じて良かったです。世界の奥行きがある。原作小説だと特にこういった要素はなく割と唐突に恐怖の魔王が降ってくるので、通りとしても良い改変だなあと思います。

 

 

 細々と書くと尽きないところではありますが、他にも好きなオリジナル要素は結構ありました。例えば扉を開ける際にプフレとシャドウゲールが無言で頷きあうシーンはシャドウゲールがクランテイルと無言で頷きあうrestartクライマックスを思い出して脳がパチパチした上で視覚的な楽しさがかなりあったし(ここ台本ト書きでは「すばやく一度だけ目を合わせる」と書いてあるだけなので、あの挙動がリンクした付き合いの長さを感じられる頷きあいは南條愛乃さんと小松未可子さんのお力によるものだと思う すごい)、原作小説には存在しないやり取りとしてある、

「[……]……君は、私と過ごした時間を忘れたいか?」

「え? 忘れたいか、忘れたくないかで言ったら……忘れたくはないですよ?」*7

という会話は、原作小説でのやり取りとはまた違う方向性にはなっているんですが、明らかに(よくない強弁)QUEENSのプフレとシャドウゲールの展開を示唆させるようなものとなっていて、楽しくも苦しくて良かったです。

 

「時間稼ぎ? だからさっき、あんなにしょんぼりして、あっさり降伏したんですか?」

「しょんぼり……。必要最低限の演技と言ってほしいね」*8

 あとはここも地味に好きでした。シャドウゲールの砕けていてやや失礼な語彙に若干引っかかるプフレという「らしさ」を感じつつのキュートな描写に加え、自分の思うようにことを運ぶため、時にはそれらしい演技もする(restartでのグレートドラゴン戦前の強欲お嬢様芝居など)プフレを思い出してにやりときたり。この辺がオリジナル要素なの、改めて自分にとって楽しすぎるな……。

 

 

 はい。そろそろいい加減本来書いておきたかった部分に入るとして(本題に入るのが遅すぎる)、今回原作小説から朗読版で最も大きな変更が加えられた部分といえば、それはまあジップステップの人格であろうと思います。

 クライマックスでのプフレとシャドウゲールに向けた朗読劇版ジップステップの激情は、言ってしまえば「朗読劇的な」改変の一部だったように思います。しかしここに至るまでの流れにも、自分的に美味しい「味」を感じたんですよね。

 

 原作版のプフレ/人小路庚江は、自身とシャドウゲール/魚山護の感情の整理というところに意識を割いており、そちらも物凄く読み応えがあって楽しいんですが、朗読劇版ではその辺りについてはそこまで深く言及されてはいません。どちらかというとジップステップ/宍岡守側に物語の比重自体が偏っている分、それに合わせて、その執着の行き着く先たるプフレ/庚江周辺の挙動もかなり変わってきています。

 守関連での庚江の朗読劇オリジナル要素といえば、まず言うまでもなく幼少期のエピソードです(ここが全てオリジナルパートだとは思わず後から原作小説を読んで慄きました)

 魔法少女育成計画シリーズには、己の精神性が固有魔法や魔法少女モチーフと明確に強く相関している魔法少女と別にそうでもなさそうな魔法少女がいますが(この個人差があるところかなり好き)、朗読劇版ジップステップは恐らく前者だったことでしょう。宍岡守にとって、人小路庚江との影踏み遊びの思い出は、彼女がそれを固有魔法のモチーフとするほどに大切でかけがえのない光でした。

 

 原作版と朗読劇版におけるジップステップの最も大きな違いは、その思い出を始発点とした、庚江への執着の度合いであるように思います。

 執着が強いから護への感情も自然と強くなるし、護のことを夢で4桁とか殺しちゃうし(?)、(恐らく)庚江と護の会話を立ち聞きするくらいの度を超えたことをしてしまって、そして二人が魔法少女であることを先んじて知ってしまうし、護の言葉でこれまで抑え込んでいた感情が堰を切って爆発してしまうし、クライマックスではエーコではなくプフレを守ろうとして死んでしまうし、生まれ変わっても庚江を守りたいと笑顔で言い切れてしまう。

 

 朗読劇版の物語が原作小説版からレールを外れていった導因には、大体にして朗読劇版守の庚江への想いが強すぎたことがあるように思います。守と庚江の強い接点って幼稚舎までの数年間くらいのものだったろうと思うんですが、これは朗読劇版の幼児庚江がちょっとあまりにも強い"光"すぎたことにより、幸せな日々が守の心に焼き付いてしまってその後の成長全てに影響を及ぼした……とかそういう感じだったりするんだろうか。実際固有魔法にその根深さは遺憾なく発揮されていそうだし……。

 しかしまあ朗読劇で見られた幼少期庚江、園児とは思えないくらいの発達をしていて賢く可愛いし、信仰心の厚そうな守に踏み絵ないし踏み影絵をさせようとするのは少しばかり趣味が悪くて可愛いし、いざ守が頑張って主人の影を踏もうとしたらするりと逃げて勝ちに行くところも負けず嫌い可愛いので、あんなものを間近で見ていた守があてられるのは理解できなくもない。原作版でも天使だし朗読劇版でも天使している。

 

 

 ジップステップのそういった原作版との差異に連動する形で、プフレの動きも変わってくるのは当然といえば当然です。

 クライマックスでのシャドウゲールの「宍岡さん、宍岡守さん、ですよね?」*9というヤバすぎる発言を受けて咎めるような一瞥を向けたプフレを見て、朗読劇版ジップステップは咎めるような目を向けたということは、お嬢様はとっくに、私の正体に……気付いていたという、こと……?」*10と考えます。ここはジップステップの主観なので真偽はわからないままなんですが(正体に気付いていなかろうととにかく時間を稼ぎたい思考のプフレがシャドウゲールの自殺志願者ムーブを咎める顔をすることに違和感はないため)、ジップステップの推測通り、プフレが彼女の正体に気付いていた可能性も十分ありうるだろうと思います。

 なぜかというと……やっぱりあまりにも守の感情が強すぎるので。脳内で魚山護を4桁殺してる人間って、いくら普段平静を保っていようとも、殺していない人よりはよっぽど庚江の注意を引きうるでしょう。

 そして何より朗読劇世界のジップステップは「庚江と護が魔法少女であることを知っている」んですよね。その原作小説版とのあまりにも大きな違いが守の平素の挙動にも影響を及ぼし、無意識にでもそれは庚江の印象に残り、監視カメラ越しにジップステップを目にしたプフレへ「宍岡守が自分達と同じ魔法少女候補生である」という直感を抱かせた……としても、自分は驚きはしません。

 

 

 ジップステップの正体に気付いていたかどうかはともかくとして。シャドウゲールの発言を引き金に、ジップステップは十年近く溜め込んできた鬱積を爆発させます。ヒートアップした彼女がシャドウゲールに暴力を働こうとした時、プフレは「やめろ!」「守……待て。早まるな!」*11と叫びます。

 ここでのプフレの内心は気になるところです。プフレは、病的とも言えるジップステップの言動を決して責めません。シャドウゲールに物理的な攻撃を加えようとすれば止めようとするけれど、これまで守が蓋をしてきた感情の爆発を受けてなお、彼女は事態に戸惑う様子すら全く見せませんでした(対してシャドウゲールは明らかに全く理解していないので「どうして?」とかなり戸惑っている)

 

 ここから先はいよいよ100%自分の想像でしかないのですが……朗読劇版の庚江は、危険なほどの守の想いの強さを、薄々程度でも察していたのではないかなあ。だからこそ、その感情自体に驚く様子はなかったのではないだろうかと思います。

 守の感情の一端でも察していた場合、やや危うさのある守のことを庚江が放置するだろうか……とは思いますが、実際、ここまでの約十年間は、守も自分の内心を行動に移すことなど決して無かったんですよね。「自らの運命も、他人の運命すらこの手で自由にできた。人小路家に生まれるとはそういうことだ」*12と嘯く庚江は、己の身内に身内でいてほしいというエゴでもって、守の危うい部分を咎めずなあなあで見過ごしていた、そういう形で守の運命を縛っていたのかもしれません。

 

 宍岡守/ジップステップが劇中でその激情を爆発させたのは、彼女が魔法少女という庚江がこれまで認知していなかった「力」を得て、その力を自分のものとしたくて行動を起こしてしまったことを起因としています。

 人間のままでいたら、守はその辛く苦しい内心を押し込めて、いつかはどこかで諦めて、最も庚江の側にはいないながら、身内の一人として生きていったのかもしれない。けれど、魔法少女になったことで、ジップステップは行動を起こせてしまった。このジップステップの爆発は朗読劇版オリジナルのものではありますが、魔法少女という力により思わぬ方向へ振り回されるところも、原作で見たプフレのあり方と近しいものがあるかなあと思います。

 

 

 そしてクライマックスシーンにて。自分を救おうとして命を落としたジップステップに「ありがとう」と零し(原作版だと最後に告げるのは別れの言葉)、プフレはシャドウゲールと手をつなぎあい、前を向きます。その際に「喉をかき切りたいほどの無力」*13を感じているプフレは、ジップステップの影響もあってか、そうそう見られないくらい感情的になっているように感じました。それでも表面上は比較的冷静さを保とうとしていたと思います。

 シャドウゲールと手を握りあうプフレの発した「月が綺麗だ」*14という言葉は原作と共通するものですが、それに対するシャドウゲールの返しは朗読劇版と小説版で違っています。その辺はまたシャドウゲールの回にでも。

 

 「ジップステップがシャドウゲールに自分の想いを託した」という流れもあってのことかとは思うんですが、ここからのプフレは「2人で生き残る」という意思を原作以上にシャドウゲールにわかりやすく伝えているんですよね(それでもはっきりと明確に伝えているわけではないんですが)

 このまま順当に原作世界に繋がるのであれば、試験の最終盤でシャドウゲールは「自分はプフレに殺されるのでは?」と考えるのだろうと思うのですが……それって相当すごい展開ですよね。この状態からそうなるのって、試験中のプフレがよっぽどえげつないことをやった場合ではないだろうか。案外朗読劇世界だとそこまで大きくすれ違わずに試験を終えられているかもしれない。どうだろうな……。

 

 

 はい。書きたい部分だけに絞ったはずが、とりとめもなく書いていたらあまりにも長くなってしまった。流石にそろそろこの辺りで終わりにします。やはりうまくまとまっていないような気がしなくもないですが、とりあえず今思っていることを大体書けてよかったです。

 

 他にも色々感想はありどう考えても書ききれてはいません。高速を車椅子でかっ飛ばしてご機嫌そうなプフレを音声で見られたの滅茶苦茶楽しかったなあとか「なら全て弁償が必要か」の邪悪金持ちお嬢様発言大好き)、アンサンブルの方たちが車椅子を小道具として持ち出してきたかと思ったら後からフラフープで虚像車椅子が表現されていて表現が面白かったりとか、試験に際しての「合格者は一人。不合格になれば魔法少女としての記憶を失う。それだけで済むかも怪しいのに[……]」*15というセリフは、原作小説以上に試験自体の不穏さを感づいてそうで印象的だったとか、アドリブのところで笑いを堪えて斜め上を向く(顎のラインが美しい)もののその後堪えきれてなくて全然笑っちゃうところよかったなとか、どちらかというと護から「気持ち悪い」と言われる側だった庚江がdouble shadowでは護へ「気持ち悪い」と言うの対等っぽくて好きだったな~とか、そういうところも好きでしたというのを駆け込みで記録しておきます。

 

 では次回は朗読劇版シャドウゲールについて。次は流石にここまで長くはならないと思う。

 

*1:公演台本「魔法少女育成計画double shadow」(p.2)オッドエンタテインメント

*2:遠藤浅蜊 魔法少女育成計画restart(前) P.215 宝島社,2019.8.23(ebook

*3:公演台本「魔法少女育成計画double shadow」(p.68,70)オッドエンタテインメント

*4:遠藤浅蜊 魔法少女育成計画restart(前) P.216 宝島社,2019.8.23(ebook

*5:遠藤浅蜊 魔法少女育成計画QUEENS P.163 宝島社,2019.8.23(ebook

*6:遠藤浅蜊 魔法少女育成計画limited(後) P.260 宝島社,2019.8.23(ebook

*7:公演台本「魔法少女育成計画double shadow」(p.37)オッドエンタテインメント

*8:公演台本「魔法少女育成計画double shadow」(p.70)オッドエンタテインメント

*9:公演台本「魔法少女育成計画double shadow」(p.64)オッドエンタテインメント

*10:公演台本「魔法少女育成計画double shadow」(p.64-65)オッドエンタテインメント

*11:公演台本「魔法少女育成計画double shadow」(p.66)オッドエンタテインメント

*12:公演台本「魔法少女育成計画double shadow」(p.15)オッドエンタテインメント

*13:公演台本「魔法少女育成計画double shadow」(p.81)オッドエンタテインメント

*14:公演台本「魔法少女育成計画double shadow」(p.82)オッドエンタテインメント

*15:公演台本「魔法少女育成計画double shadow」(p.36)オッドエンタテインメント