すふぉるつぁんど

主に遠藤浅蜊著「魔法少女育成計画」シリーズについて書き残していくブログです。

まいにち魔法少女87日目:プフレ(QUEENS)

 

 本日のまいにち魔法少女です。ナンバーは5。プフレでした。

 来てしまった。ああ。あー。できる限りちゃんと文字に出来るようにやっていきます。今日でどうにかもう一段階乗り越えて向き合っていけたらいいな。がんばります。

 

 なんというか普通に手が滑って文字数がオーバーしましたが4500字に収める努力は本当にしたので4500字ということにしてください。

 

 

 プフレ。魔法少女育成計画シリーズで、自分がいちばん好きな魔法少女はプフレです。4年分の感情(2017年6月で魔法少女育成計画シリーズは5周年、11月にはrestart発売から5年が経つことになります。時が経つのはやいなー)が拗れたり歪んだりしながら堆積しているため、その「好き」の特別度合いはこれからも変わらないんじゃないかなと思います。プフレのこととてもとても好きです。

 

 QUEENSではプフレ視点の大盤振る舞いで、読んでいて本当に楽しかった。自分はやっぱり彼女のセリフや考え方を見ているのがとても好きだなーと思いました。

 彼女はrestart後編で示された答えから一貫して変わらず魚山護を第一に動く人間です。その行動原理は一切変わらないままに、プフレがシャドウゲールを守る為に最善を尽くす。それが魔法少女育成計画QUEENSでした。

 

 

 最善の尽くし方なんですよね。「護さえいればいい」という彼女の核自体が既に途方も無く魅力的ではありますが(「思い通りに動いてくれないのは魚山護一人で充分だ」という序盤の彼女の独白は、「護さえいればいい」的思考をよく表していると同時に、ふたりが過ごしてきた平和だったり平和じゃなかったりした「これまで」をこれ以上なく想起させられて震える一文です。ふたりには約18年分の人生があり、その時間を確かに積み上げた果てにQUEENSがある、というのがプフレ(とシャドウゲール)の視点から伝わってきます。だからこそ飴玉になって護の元から消えた「これまで」を想像しては苦しむことになるのですが。作りが見事なだけに落ち込みも激しい)、プフレの更なる魅力はその最善の尽くし方にこそあります。

 プフレは頭が良く、人を動かす才能に長け、情報処理能力が卓越しています。その頭をフル回転させて全力をもって護を救おうとしているのが、彼女の視点からけしてブレを感じさせることなく読者に伝わってくる。それこそがプフレの魅力です。

 

 例えば人を見るやり方。プフレから見た時のマナ、ハムエル、ファル、プリンセス・デリュージなどを評する文章は読んでいてテンションが上がります。

 彼女はいっそ超能力めいて人を「見抜く」存在ではありますが、プフレの視点を通すことで何をどう根拠にして為人を察するに至っているのかがよく説明されています。気の抜ける人、抜けない人を見分けて微妙に態度を変えるプフレなども楽しい。ファルを相手取ると「相対的に素直」になるとは本人の弁。敵の動きを評価する際に「プフレでも狙うならグラシアーネだ」というコメントを入れているあたりも好きです。

 

 例えば人の動かし方。マナのところに殊勝なふうを厚顔にも装って出頭し、自分を餌にlimitedの事件を引き出して彼女を三賢人の邸宅に向かわせる。

 デリュージに対して自分の罪を告白し、自分を利用しろと発破をかけた上でダークキューティーと共に伴わせる。

 敵の目の前で爆弾を模造し、それによってプク側から行動を促し、その騒ぎに乗じて全部をレーテに押し付ける。

 ラズリーヌに「プフレの目だ。あれがよくない」と言わしめた表情。あれも最後の最後まで手繰っていた、人を動かすための糸の一本だったかもしれません。口から血を零しつつ「強いて微笑んだ」プフレは、既に詰んでいる中でなお最後の策を巡らそうと、震えながら不敵に笑ってみせた魔法少女の最期のシーンとどこか重なります。

 

 

 余談ですが、QUEENSを読む前の自分にとって、プフレとシャドウゲールが受けた百人試験は細部を語られないからこそ説得力を保っていられるものでした。魔法的にそれほど有利でない魔法少女が、果たして101人の中で生き残れるものでしょうか。きっとその中にはレア度♡5の世界観が違う規模の魔法少女も居たでしょうし。

 しかしQUEENSを読んで、ああこれは殺せるな、と一気に納得させられました……。レーテ様をさえ(シャドウゲールに危険を及ぼすとなるや否や)プク様とぶつけてぶっ潰すプフレの采配は実に鋭いもので、魔法少女初心者の魔法少女を思うように動かして潰し合わせるなんてそれはもう朝飯前のことだろうなと。100人試験に説得力が増すこと自体がちょっと信じがたいことだったんですが、いやあ遠藤先生のことを見縊っていたなあと喜ぶばかりです。よろこ……よろ……

 

 

 さて話は逸れましたがプフレの思考の魅力について続きます。

 終盤でかなりわかりやすく示されますが、目標を遂行するにあたっての彼女の考え方はどこまでもオートマチックです。複数本の勝ち筋を用意し、それが一本、また一本と断たれていこうと、最後の一本が切れるまでは(表層的な思考としては)絶対に諦めない。弱音を吐かない。

 なぜくよくよしないかというとくよくよしてもどうにもならないからです。絶望したところで事が良くなるはずも無く。プフレは淡々と最適の場面を作ることに集中し、「もしもこうだったらもう既に詰んでいる」という(きっと勝利の可能性よりも尋常でなく大きい)敗北の仮定は悉く無視して、最善の行動を一つ一つ積み上げていました。

 

 restartでのプフレもそうでした。彼女は理不尽極まりないデスゲームに巻き込まれて、およそ可能性が高そうな「マスターが全部の殺人の黒幕で全部どうしようもない」という可能性は最初から断った上で物事を考えていました。それは「考えてもどうしようもない」から。プフレは、人小路庚江は、そういう存在です。

 車椅子の魔法のことだってそうです。シャドウゲールの機械を改造する魔法のほうがとんでもなく有力で便利で強大で、シャドウゲールもそれがわかっていて、だからこそあなたのキャラクターに合っていない、と言ったのでしょうが、プフレは「こんな魔法じゃなければ」なんてことは決して考えません。単純だからこその使い道を考える。それは別に負け惜しみでもなんでもなく、考えてもどうしようもないからです。

 

 自分はプフレとシャドウゲールが、「魔法少女になってしまった」存在であることについて考え込むことが結構あったのですが(彼女達ふたりは、スノーホワイトリップルに相対するかのように「魔法少女」への憧れや希望の描写がほぼ全くといっていいほど存在しないふたりでした。庚江は祖父からの「魔法少女は好きかね?」という問いかけに「それより甘いラブロマンスの方が好み」と返し(冗談めかしてはいますが、これは大変核心に近い会話だと思います)、そしてrestart以前のプフレは魔法少女である自分達の生活について「人間としての現実以上に味気ない」ものだと表現しています)QUEENSで徹頭徹尾こういう考え方をしているプフレを見て、彼女は「護が自分に名前を縛られた従者でなかったら」とか、「自分達が魔法少女に選ばれなければ」とか、そういった旨のどうしようもなく苦しくなるような後悔はけしてしなかったんじゃないかな、と思いました。ずっと答えの出ないまま考え続けていたことに、大変自分勝手なものではありますが一つ落ち着くところを見つけられて本当によかった……。

 

 

 プフレは実に機械的に物事を運びます。しかし、目的遂行に影響しない端々で、彼女はこれまでになくはっきりと感情を露わにしていました。それは今までのプフレにはほとんど見られないことで、それほどまでに彼女が追い詰められているというのをはっきりと示していました。

 デリュージの知るプフレは笑うか微笑むかで、状況を問わずどこか楽しそうだったが、今のプフレからは享楽も皮肉も鳴りを潜め、じんわりとした緊張感を全身から滲ませている。膝に置かれた両掌はきつく握り締められ、赤みと白みではっきりと分かれていた。

 特に印象的なのはここですね。ここ、「シャドウゲールの命が危ない」という事実に別段変わりはないのに、なぜ記憶を再取得したプフレが明確に緊張を示しているのか。

 それは恐らくはプフレの知る初代の知識(彼女は魔法少女を憎んでおり、そしてどうやらその初代の息のかかった存在が手を貸し、デリュージを唆してシャドウゲールの誘拐に話を運んでいたらしい)が多少影響しているのではないかなと思いますが、プフレはそのあたりについて一切読ませてくれませんでした。ここからプフレの視点はしばらく飛んで、プクと相対した上での「動くべきタイミング」の作成調整のほうについて考えているところが描写されます。もう完全に目前のやるべきことに気持ちを切り替えてしまっている……。

 

 プフレはそういうことばかりです。考えているのに、感じているのに、決して読者側に「読ませない」知識や感情が、プフレの中には山ほどある。

 

 その最たる例は最終盤。プフレの視点に乗って物語を読み、ダークキューティー、プリンセス・デリュージを左右に引き連れ、「ロケットがパーツをパージして飛んでいくように」人を減らしながらなお息もつかせぬような戦いを繰り広げる彼女を追って最終的なプフレとシャドウゲールの相対まで至った読者は――「プフレの視点を読む」ことではなく、「シャドウゲールの視点を通してプフレを読む」ことで初めて、彼女が心の底からプク・プックを恐れていることを知ります。

 

 人小路庚江に嘘偽りがない時は、それとわかることがある。今のプフレは心の底から「すぐそこに迫っている敵」を恐れている。間に合わなければ全てが終わると真剣に考えている。

 

 恐怖なんて地の文のどこにも一切全く見せなかった彼女が、シャドウゲールを相手にすると実にあっけなく「読み上げられて」しまう。プフレとシャドウゲールの間でやりとりされる感情を読む能力は、プフレを内側から直接見ているはずの読者なんかよりも、彼女と向き合ったシャドウゲールのほうがよっぽど高いのです。

 

 この。ひどい。ひどいなぁ……。感情を読むことにおいて、プフレとシャドウゲールより下位に読者が置かれているという構造。「プフゲル尊い」なんて陳腐な言葉を使うつもりはありませんが、しかしプフゲルがrestartからこっち読者に立ち入らせない領域をずっと持っていたことは確かです。

 彼女は最期までスノーホワイトに切り裂かれた左手の痛みを読ませませんでしたし、致命傷を受けてさえ、鋏を捻じ込まれた瞬間の「鋭い痛み」という言葉ひとつで終わらせてしまいました。細かい描写をされないからこそ彼女が受けた痛みについて考え込んでしまう。滅茶苦茶痛い。

 

 

  さてプフレが最期まで読者にはっきりとは読ませなかった要素、まだあります。それが漏れているのはこの会話。

 

「お嬢、嘘は吐いていませんよね?」

「当たり前だ。敵がそこまで迫っている。急がなければならない。君にしかできない仕事なんだよ、護。私がやったのでは意味がないんだ。間に合わなければ全てが終わる」 

 

 彼女はいざとなれば護から奪ってでも契約書を使うつもりでした。しかし要項を確認した結果として「自分が契約書にサインをすると、恐らくそれでプクは死ぬが、不幸の代償として魚山護が犠牲になる」と考えたのだろうと思います。だからこそ「私がやったのでは意味がない」という言葉が出てくる。護が救えなくては意味がない。

 プクを止める、全魔法少女を救うほぼ確実な手段がそこにあり、しかしプフレはそれを蹴って、装置の停止としては更にか細い、しかし護を救うためにはごく僅か太い選択肢を選びます。もしこれでシャドウゲールが自分の死を不幸と見做していれば、魔法の機械は完成し、シャドウゲールは死に、プク様を止める手段はもうありません。プフレはどろどろです。でもそんなことも決して考えない。

 プフレにとっての肝要は、その賭けが失敗した時の自分の処遇なんてものでは決してなく、「失敗すればシャドウゲールは惨めに死ぬ」ということ、ただそれだけ。

 

 

 そして。そして、プフレは賭けに勝ちます。……最終的に「勝った」 とはっきり言い切れる最期ではありませんでしたが、シャドウゲールが生きていること、それは紛れもない勝利です。

 ただそれでも、完璧な勝利とは決して言えません。それはプフレが死んだことでシャドウゲールが非常に危険な立場に置かれてしまうからです。彼女の魔法は強力です。ほぼ単身で「魔法の機械」を弄ってしまえるだけのポテンシャルがある。危険回避に殺される、いいように利用される、そんな可能性は読者が考える限りでもいくらでも想像がつきます。

 

 契約書の時のやりとりからも伺えますが、プフレは護を守ることで自分が死ぬことを十分ありうる可能性の一つと見た上で動いていた、それはほぼ確実な話だと思います。(恐らくは記憶をぶっこ抜かれるJOKERSに至る前の段階から既に)破滅後の用意をしていたあたりからも、自分が死んだ後の事についてプフレが考えていたというのは容易に察することができます。

 そんな彼女が自分の没後どう護の無事を確保するか、それをどのように考えていたのか。危険思想持ちの初代に属するラズリーヌに頼み事をする彼女は、果たしてそれがどの程度思い通りに叶えてもらえるものだと思っていたのでしょうか。

 

 全てはプフレの一番最適な方法を追っていく、というやり方に信用を置いたうえでの発言ですが。プフレが自分の没後に備えて何かを遺すにあたって、不明確な相手に対する今際のきわの頼み事だけに以後全ての勝ち筋を絞るだろうか、というのは多少疑問が残ります。

 それにしたっても大仕事なのでそんな余裕は無かったと言われればそれまでですが、少なくとも記憶を取り戻してから十キロメートルの距離を行軍する間のプフレは(比較的)自由な立場にあるんじゃないかなと思います。いやああるかなぁ……?

 あるといいな。あってほしい。この話は終わりです。 

 

 

 というわけで好きなイラスト。挿絵を貰えていない魔法少女が居る中プフレはあとがきイラスト含め三枚持ちという大富豪具合です。どれが一番好きだろう。

 どれもどうしようもなく好きなんですけど、マナの日にマナといる挿絵について書くし、シャドウゲールの日にシャドウゲールといる挿絵について書くので消去法であとがきイラストが好きということにします。というかあとがきイラストが一番好きです。

 今でもあの絵を見るといろんな気持ちが湧き上がって来て困ります。おつかれさまでした。庚江の亡骸は今どこにあるんでしょうね。

 

 

 好きなセリフ。好き、と言い切れるわけではないんですが「この子……護から、私に関する記憶を抜き取ってやってくれないか。彼女はあまり強くないものでね」について。

 このセリフによって生じた出来事についてはシャドウゲールの日(シャドウゲールの日……)に書きますが、うん、「一番護の生き残る可能性が高くなる」ようにするための頼み事としては一番有効なそのお願いはとんでもなく残酷なものです。何が残酷って本当にただただ本人のためだからです。

 人小路庚江の記憶を持っている魚山護は、お嬢が死んだと知ればきっとエピローグでの状態以上にとんでもないことになる。それはわかるんですが、わかってるんですが、あまりにも……。

 プフレに「護を守る」以外の意思が当然ながら存在しているのは、目を閉じて最期に護を抱きしめるお嬢(それは別に護を守ろうとする行動ではなく、そこに目的のためという理由付けが入る余地はない)が描写されていることで明らかとなってしまっていて。ああ。はい……。こう書きたくはないんですけどやっぱりずるいと思う……。

 

 

 プフレのこと、好きです。好きでした。好きです。

 QUEENSの顛末について、プフレがけしてブレることなく、自分の好きな彼女のそのままだったことが嬉しくなかったといえばそれは嘘になり、しかしその喜びを喜びとして受け入れるにはあまりにもプフレがもう喋らないということが悲しくて、プフレの一挙手一投足が大好きで、ずっと見ていたいくらいQUEENSの文章は魅力的で、理性的には大好きな筈なのにどうしても受け入れられなくて、いやあ相反する気持ちでぐちゃぐちゃでした。

 今でもまだ冷静になりきれていないところがあります。遠藤先生の文章は大体において好きですが、とりわけプフレ、そして人小路庚江の喋っている言葉、何気ない動作の一つ一つが大好きでした。人の命を大量に踏み台にし鬼悪魔と叫ばれるような恐ろしい性質の持ち主でありましたが、同時に自分にとってはとてつもなく素敵な魔法少女だった。明日もがんばります。